AtoPブログ~政策のヒントを目指して~

独り言・書評 ―紙と机の上で社会と政策と将来を考える―

本や論文を読みながら社会、政策、将来への洞察を見出しつつ、書評としての機能も目指すブログ。2018年12月リニューアル。不定期更新

科学技術のガバナンスの「意義」とは何か?:城山英明(2007)『科学技術ガバナンス』

 

 私生活の諸事情で更新が滞りました。これからも定期更新できるか不明ですので、当面は不定期更新で細々とやっていくつもりです。

 では、今回も書籍の紹介と考察を述べさせて頂きます。

 

科学技術ガバナンス (未来を拓く人文・社会科学シリーズ)

科学技術ガバナンス (未来を拓く人文・社会科学シリーズ)

 

 

 「科学技術ガバナンス」という言葉は科学技術社会論や科学技術政策論の文脈で登場する言葉であるが、本書の定義で城山英明は、「科学技術は多様な社会的合意を持つ」と述べた上で、「社会と科学技術との境界には、様々な問題や考慮事項が存在し。それらを踏まえて、社会的判断を行わなければならない。このような社会的判断という機能のための仕組みが必要であり、様々な問題に対処するための具体的な制度設計のあり方が重要になる。このような仕組みや具体的な制度設計が、科学技術ガバナンスである」(p44)としている。

 そして、「科学技術ガバナンスにおいては、様々な分野の専門家、様々なレベルの政府(国際組織、国、地方自治体)、様々な団体(専門家団体、事業者団体等)や市民といった多様なアクターが連携・分担、時に対立しつつ、科学技術と社会の境界に存在する諸問題をマネジメントしていく」(p44)と、科学技術ガバナンスの機能を説明している。

 この議論の含意を考えるためには、上記のような科学技術ガバナンス概念が持ち上げられた背景を考える必要がある。

 背景としては、20世紀に利用が開始された原子力(出版された当時は2007年であったので、福島の原発事故は起きていない)や、20世紀末から21世紀にかけて遺伝子組換技術やクローン技術やナノマテリアル等の社会的リスクや倫理的な問題を含んだ科学技術をどう社会的に管理・規制していくかという問題が持ち上がったことが一つにある。

 あるいは、英国のBSE対応の問題で、発覚当初に政府によって「BSEにかかった牛を食べてもヒトに感染しない」と発表され、感染者が続出してから後からBSEがヒトに感染することが政府から発表されて、政府や専門家の信頼が失墜した事件や、SARS対応における中国政府の初動・報告の遅れや隠蔽疑惑(私には能動的に隠蔽したというより、機能不全化した官僚制が原因のようにも思えるが)のように、科学的な判断に基づいた判断が社会的混乱や経済的損失と天秤を掛けられた場合に狂わされる事例もある。

 狭義の科学研究は真理の探求という目的があるので、社会・政治的圧力によって科学の知が捻じ曲げられるということは、例えばガリレオの時代には問題化したが、現代の自由・民主主義国家においてはきわめて稀なことだと思える(無論、どの研究に資金が供給されるかには政治的コントロールが働き、権力の行使は知識自体にではなく、資金や組織に向けられる)。しかし、社会での科学的知識の応用を目指した工学・技術においては無論、科学の知見から政治的判断を下す場合には、科学知の利用は社会的な要請や政治的力学に晒される。あるいは、ウイルスの合成も可能になってきた合成生物学や高度な判断を下せるようになってきたAIの研究も、真理追求型の科学研究の形をとっていてもその知識の応用によっては多大なる社会的インパクトを生む意味で、科学研究の自粛も必要になることも考えられる(有名な例は、遺伝子組換研究に関してガイドラインが出来るまで研究の中止さえも議論された1975年アシロマ会議がある)。科学技術と社会の相互作用が強まってきているこの時代に、科学技術をどう社会や研究者がマネジメントしていくかを論じるための科学技術ガバナンスという言葉が出てきたのは自然なことのように思える。

 さて、この科学技術ガバナンスという概念を政策的にどう利用するかを考える必要あると思われる。数々の政策的インプリケーションは指摘できるが、幾つかを私の考察を含めながら指摘していきたい。

 一つに科学技術に対する社会的合意調達が「無知な大衆に唯一解である科学的知識で啓蒙して科学技術の効率的な社会利用を実現する」という俗に言う欠如モデルは有効でないということである。このことは、中谷内の書籍の紹介でも指摘したが、科学技術の不確実性の存在、並びにその効用・リスクの評価基準が人々によって違ってくることを考えれば、専門家の知識を注入して人々を教育すれば問題が解決するというコミュニケーションは有効でないと思われる。本書ではそのようなことを示すために「ガバナンス」という言葉を使って各アクターの並列性・対等性を強調している。

(参考)

http://blog.hatena.ne.jp/atop_policyhint/atop-policyhint.hatenablog.com/edit?entry=8599973812277147904

 もう一つには、科学技術に対するリスク評価の方法論の精緻化を科学技術ガバナンスにおけるマネジメントの一環として本書は主張している。絶対的あるいは唯一解的な評価基準や方法を定めることは困難と述べたことに矛盾しかねるが、それでもマネジメントをする上ではリスク評価を行うしかなく、各アクターによって効用とリスクに違いが出ることも視野にいれた上でのリスク評価の方法についてもある程度の合意が必要であるということが本書の示唆であろう。評価方法についてのルール、あるいは科学技術に関するメタ的なルールを整備して、科学技術の利用に関する評価をする必要があるということであるが、これを政府でやろうとすればかなりの政治的リーダーシップと各省の協調が必要になると思われる。

 また、リスク認知の方法が一般の人々は客観的なリスク評価とは違って、「破滅性」、「未知性」、「制御可能性・自発性」、「公平性」の因子に影響を受ける。「破滅性」とは飛行機事故のように一度事故が起きれば大量の人々が死亡するようなハザードを高く見積もるということであり、事故遭遇率で言えば飛行機よりも高いとも思える自動車での長距離移動を安全と思ってしまう(「飛行機は自動車より安全」とまで主張する人間もいるが、利用者の割合を無視したまま事故死亡者を全人口で割った値を根拠にしたり、利用回数を無視したまま事故遭遇率を根拠にしたりと、自動車と飛行機の安全性をきっちり比較したものはなく、私にはどっちが安全かは判断つけられない)。「未知性」とはそのリスク要因が観察可能か、ならびに科学的に説明がつくかどうかであり、放射線被曝の恐怖というのが例として考えられるであろう。「制御可能性・自発性」とは、自分がリスクに暴露されることを選択できるかであり、バンジー・ジャンプしたがる人と無理やりバンジーさせられる人の間のリスク判断のズレがそうかもしれない。「公平性」とは、そのリスクが特定の集団に偏ったものであるかどうかであり、沖縄の米軍基地とそれに関連する事故のリスク認知も基地を不当に負担させられていると感じている沖縄の住民と市民団体にとって米軍基地はより危険な施設と認知されているのかもしれない。

進化心理学者と社会心理学者からの日本社会へのダメ出し集~長谷川眞理子, 山岸俊男(2016)『きずなと思いやりが日本をダメにする 最新進化学が解き明かす「心と社会」 』~

 

 

 

 月末更新と言いながら思わずに更新したくなるようなライトな本を見つけたのでこの本を取り上げさせて頂きます。『きずなと思いやりが日本をだめにする』

 

 内容をざっくり纏めると、人間の心理を生物種の進化の過程から研究している長谷川先生と社会システムとそこに生きる個人の心理の相互作用から研究している社会心理学の山岸先生の観点から日本社会のダメなところをザクザクとダメ出ししている本ですね。私が取り上げる所以外にもタメになる話は多いと思いますが、対談集が苦手または嫌いな方もいるのでこの本は人を選ぶと思います。特に文脈や背景を推し量りながら読まないと偉そうなことをぬけぬけ言いやがってと思うかもしれませんし、私も細かいところは目を瞑ってます。

 さて、この本の冒頭はいきなり少子化対策に関する政策への批判から始めていますね。お説教とスローガンで解決したら政治は要らないと。3世代同居で昔の人類の基本に立ち返って婆ちゃん、爺ちゃんの手を借りれば済むかといえば、必然的な女性の社会進出で子供に時間と労力を投資するよりも自分のキャリアや幸せに投資するトレンドの存在もあってまだ足りないのではと。今まで家庭に閉じ込められて社会での活躍を阻まれてきた女性が子供を持つ選択をするのに社会的な支えを得られるような制度的補完が必要だということですかね。

 私は特段に新しいことを言っているとは思いませんが、スローガンや広報で解決すればいいと考えている官僚はダメだというのは納得ですね。そもそも広報等の情報を使った政策は情報の非対称性や社会的なモラルや人間の道徳によるサポート的な支持がない限りは働きにくいものですね。例えば「セクハラ、パワハラはやめましょう」は今でこそ効力を感じにくいですが、昔はひどかったのでしょうね。しかし、それも政府やメディアの宣伝や報道で非難されるべきことというのが元々に人間の心理にあったモラルと合致してより強められて社会的な規範として明確化されたと思います。ただ、少子化対策で「女性の人達は子供を2人以上持ちましょう」や「子供を育てることは幸せなことですよ」は政策として通じにくいでしょうし、実験として女性にPR動画を見せればすぐに効果を計測できます。でも、厚労省とかがそんなポスターを出しているのは平成生まれの人間は見たことありませんが。恐らくお説教で解決したら政治は要らないは政治家に向けた皮肉でしょうかね。

  次は山岸先生のボールペン実験の話ですね。ある実験でアンケートの謝礼として1本だけ色が違ってあとの4本は同じ色のボールペンを5本見せてその中から1本だけ選ぶように言うと、東アジア人はその1本だけの色のボールペンを選ぶ人の割合が白人より少ないという結果だけで、東アジア人は協調性を求めて、白人はユニークさを求めるという乱暴な実験が出た。このことに山岸先生はすぐに反証実験として、被験者にボールペンを選ばせるときに実験者が理由をつけて席を外すから自由に選んで帰っていいといったパターンと、他に4人の被験者がいる状態で1本だけ色が違う5本のボールペンを一番最初に選ばせるパターンでは、1本だけ色が違うペンを選んだ東アジア人と白人の数が同じになったということを示した。

 つまり、東アジア人と白人では特定の状況では同じような行動を取るが、ある特定の状況ではデフォルトで選択する戦略が違うだけという可能性を山岸先生は示した訳である。もしくは、私から見ると、実験の解釈として最初の疑わしい実験では東アジア人が実験者から謝礼を目の前で受け取るときに東アジア社会で歓迎される戦略を実行して同じ色が4本あるペンを選び、白人は彼らの社会で許容される戦略を実験者の目の前でまんま実行したと補って解釈しても良いかもしれない。

 そのことから日本人はそのまんまの単体で協調性があるという訳ではなく、日本の社会システムで生活して(あるいは隣人やコミュニティーから監視されて)いるから協調性があるように行動しているだけで、同じく山岸先生が示した、他人に反対しないという意味でのネガティブな協調性と他人に協力するために何かするという意味でのポジティブな協調性が日本人とアメリカ人で比率が違っていて日本人の方が波風立てないでおこうとするネガティブな協調性の方が高いという研究結果もそれを肯定しているかもしれませんね。アメリカの社会保障が日本より優れているとは思いませんし、そんなことは両先生も書いておりませんが。

 次に面白いのが、社会実験の結果として年収が高くて社会的地位が高い人は目の前の他人の感情に共感することを抑制して時には冷酷とも思えるストラテジックな行動を取る傾向との相関性があるという話ですね。ストラテジックな行動が取れるから出世するのか、出世したから敢えて「泣いて馬謖を斬れる」のかは分かりませんが、そういう立場の人間には会社がどうにもこうにもいかなくなって人員整理を行う非情な選択をすることも必要になるということでしょうかね。リストラしないと全員失職まで追い込まれたら心を鬼にしないととは思います。ただ長谷川先生が政府の委員会で共感性の欠けた人間をちらほら見たという証言をしている通り、共感性を欠いたサイコパスな人間が出世をしているだけかもしれませんし、何かのネット記事でそんなサイコパス社員の話をみたような気がします。

 ただ、この話し方よく考えないといけないのが、目の前の人間が憂き目に遭っているからこの改革や政策はやめろと訴える人達でしょうかね。犠牲に遭う人達がなにも補償も今後の生きる術もない状態なのは改革のスピードとしてやりすぎで危険だと思いますが、長期的な視野から見てそこで既得権益に巻き込まれていない将来世代の利益を考えると今の世代に多少の負担をかけても実行しなければいけない政策もあると思います。その政策が何かは状況によりけりだと思いますが、より将来を考えた上で誰が得して誰がツケを払うかを考えられる視点から見えるものも議論で主張されるべきだと思います。増税の問題はこれに当たりますし、社会保障も多少の失敗は込みですみやかに解決策を考えて試していかなければ社会の持続性を奪うと思いますね。

 しかし、この本の両先生の話を聞いているとそんな精神論ではだめだとお叱りを受けるかもしれません。その事で私が面白いと思っているのは話の脱線となりますが、一橋の先生が講演していた未来省の可能性についてですかね。実験において将来世代を考える役割の人間を置くとグループの結論がより将来世代に配慮した決定に変化しうるというもので興味深かったもので、制度の方を弄ったほうが良いのかもしれませんよね。

その話の詳細は以下の動画で。

 

www.youtube.com

 

 他にも色々とダメ出しや放言はあったのでしたが、やはり日本の社会がこれまで均衡的に成り立ってきた社会システムがグローバル化に対しての適応を迫られている時に、どういう新しい社会の均衡に向かうかは考えなくてはいけないということですね。敢えてこの対談を記事として拾ってきたというのも広い意味での心理学者が社会制度の方に注目しているというのは念じておくべきですね。人間の心や行動は社会制度やモラルに縛られる一方で、あらたにそれらの縛りを作り変えていこうとするのも人間だし、悲しき哉、自分の縛りを他人にも括りつけようと躍起になるのも人間ということですね。社会科学の知見を活かして均衡が可能、つまりは持続的で人々の不幸が最小化できるような社会制度を考える必要があるとのことで、バトンを差し出されているような気分がしましたね。

 今日はこの辺にして、溜まっている積読を読み片付けていきます。それらが片付いたら政策科学や話題のサービスデザインの本を紹介できる準備をしようと思います。次の更新は来月末です。それでは、ごきげんよう

  

 

 

 

 

 

土地問題はどこからか?:吉原祥子著『人口減少時代の土地問題』

 

 こんばんは、ブログで約束した月末の締め切りの約束をすっぽかしてすみません。

 自分は出版物に原稿なんて投稿したことない人間ですが、あれこれと面白いことに目を奪われていると記事を書く暇が...。しかし、今回は大変参考になったのもありますし、普段の問題関心に近い本を見つけたので紹介させて頂きます。

 

 

 

 この本は新書で200p弱しかないですし、スラスラ読める書きぶりなので是非一度手に取ってみてください。

 

 私がこの本を読んで問題関心を抱いた第一のポイントが土地情報のインフラ整備の酷さですね。読む前から私は日本全国でどこの土地が放置されているか分かるような電子地図情報が必要ではと漠然と思っていましたが、土地の所有者の情報(つまりは登記)と相続に関する情報や一定の面積の土地や農地の取引に関する情報が連動していないことをこの本に教えてもらって成程と思ってしまいましたね。土地のある所有者が亡くなって相続が発生しても、相続の基本となる戸籍がある本籍地とその人が死んだ土地の自治体にしか死亡届がいかないので、本籍地でも死亡地でもない土地が存在すると、その土地を持つ自治体は所有者が死んだことすら分からない。もちろん相続者も把握できない。

 この問題を考えるといかにアナログなままの戸籍制度が不便か分かりますね。パスポートを作った人なら分かりますが、だいたいパスポートの申請書の本体に付随して戸籍謄本または抄本の添付まで市民にやらせる必要は謎ですね。市民の出すパスポートの申請書に本籍地の住所を書かせて、行政が何も言われずとも戸籍の証明事項を確認すればいい話だと思うのですが、どうでしょう。取り寄せが発生する人には追加料金を取ればいい話でしょう? しかも、戸籍抄本の取り寄せとパスポートの申請で二回も来させる必要がなくなりますよね?

 もっと根本的には戸籍が紙ベースで本籍地に戸籍の内容のコピーを送付させてくる仕組みが不要ではないでしょうかね。戸籍には人によっては部落の出身であったか等のセンシティブな問題も含むので配慮は必要ですが、家族関係や国籍の確認のためのデータベースはあるべきだと思います。そしたら、相続関係の申請も相続者が戸籍の情報を集め廻って事実証明に骨を折る必要はないですし、本書でも指摘されている通り、相続者に被相続者の不動産を行政が通知してあげられるサービスができると思います。

 もっと自分の主観的な意見を書けば、制度利用の状況が望ましくない状況で放置されているのは行政の政策担当者の「サービス精神」が不合理なまでに欠けているからとしか言いようがないですね。利用者の目線に立ってサービスを合理的に設計するよう努めていくのは行政として当然であり、自分達も職場を出ればそのサービスの利用者になりうるのに、行政の都合や守旧性でサービスを不便にしているのはある意味で役人的アパシーですね。土地問題についても登記の問題や相続の問題に利用者視点で利用を考えられていたら、登記が申請されずに所有者不明の土地が急速に増えていく事態にはならなかったでしょうね。

 かなり嫌味たらしく書いてますが、理由はあります。それが以下の法務省の資料ですね。

http://www.kantei.go.jp/jp/singi/keizaisaisei/miraitoshikaigi/suishinkaigo_dai6/siryou5.pdf

 

f:id:atop_policyhint:20171107014409p:plain

 

 まず、個人情報保護法の観点から公開に後ろ向きなのは理解できますが、制度上想定されていないからという理由で個人情報を除いた上での地図データの公開の可能性まで一蹴するのは理由がないように思える。コスト上の問題と個人情報保護法の二点位しかマトモな理由がないように私は考えております。

 また、今回は農地の観点からの地籍図(登記情報がある地図)の公開の要望であったが、土地問題に直面している自治体や地域住民にとっても地籍図は政策を考える上で必要であるので、個人情報保護法の制約を守りつつも、例えば死亡した事が分かっている人の登記のまま放置されている土地の情報を提供することもありえると思います。相続者の情報がなければ故人の情報は個人情報ではありませんし。

 余計なことを言えば、法務省が情報化関連で後ろ向きなことは割と有名らしくて、以下の法務省の資料は一部界隈で揶揄され続けている文書です。

http://www.moj.go.jp/content/001236231.pdf

 

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 とりあえず屁理屈つけてやらないみたいなこと言ってますが、DQNネーム的な振り仮名が戸籍に載ったら国語行政に影響があるあr…ねーよだと思いませんか。そもそもこの報告書は戸籍に振り仮名を載せる意味を全く検討していませんね。最初の理由の戸籍の振り仮名の変更に家庭裁判所の審査云々の意味が私にはまだわかりませんが、たとえば神木隆之介(かみき りゅうのすけ)の読みが「かみき たかのすけ」にするのに家裁の審判が必要とかいう話ですかね? 自分の漢字の振り仮名について本来の読み方と通称がずれている人は何人か知っていますが(鈴木寛さんなら「かん」や「ひろし」と)、普通はそんなにころころ変えませんし、戸籍になんと書かれようと日常生活で支障は出るんでしょうかね。

 税金の使い方について民主党政権期に役所を仕分けるみたいなことやりましたが、本当は行政サービスこそ吊るし上げるべきだったと思いますが、政治家も面倒な行政の手続きは誰かがやってくれるのか、市民の立場からズレているような気がします。

 書籍の紹介にやっと戻れば、土地問題については個人の所有権の問題について指摘されていますね。放置されている土地はもったいないですね。長年に使っていない土地、ましてや死んだ人の土地のまま放置された土地は後世の人々の利益を考えてパブリックにするべきですね。そこ再び大震災が来たら東日本大震災の復興の遅れのような土地の問題も再来するという指摘は恐ろしいですね。

 国土については国交省があるはずですが、彼らが仕事をするのに必要な情報は、サービス精神が欠けた法律家集団の法務省や、周辺的で非生産的な権益争いをやってばかりで自治体も含めた行政の情報基盤整備に後手後手な総務省のおかげで集まらないのかなとも思います。各省連携して土地の問題に取り組んでほしいのですが、連携する上で基本となる情報共有が今後加速的に進むかは不安ですね。

 もっと本書について知りたい人はぜひ書籍か、他の方のブログを探してみてください。それでは、また月末以降に。

クアンユーの実力主義哲学~リー・クアンユー(2014)『リー・クアンユー 未来への提言』~

 

リー・クアンユー、未来への提言

リー・クアンユー、未来への提言

 

 

 更新が滞ってしまいましたが、ほぼ二カ月ぶりですね。紹介するのに良い本が見つかってから書こうかと思っていたら結構日が経ってしまいました。読者なんか全くいないようので勝手なペースで更新してもいいのですが、将来にブログの定期購読者が出ると楽観的に考えて、毎月末に1冊紹介するのがよいかもしれません。今回は二か月ほど空いたので急遽書きますが、次回は余裕持って来月ですかね。それに前の記事の添削もしておこうかなと。

 

 それで今回は『リー・クアンユー 未来への提言』です。今回は政策と無縁ですが、シンガポール(人民行動党)の政治哲学を学ぶために、岩崎育夫さんの『物語 シンガポールの歴史』を思い出しながら、現代の政治社会を考える意味でも紹介しようと思いました。

 まず、リー・クアンユーがインタヴューで語る上でのキーワードは徹底的な実力主義哲学ですね。若い時には自分も留学したことのあるイギリス支配下でのシンガポール時代を生き、WW2では日本の苛烈な占領統治で命からがら虐殺を免れた経験を持ち、国内の共産主義シンパと権力闘争しながらシンガポールのリーダーになっても、マレーシアから追放されて記者会見で男泣きをし、インドネシアやマレーシアに囲まれて時には脅迫されるといった苦労こそリー・クアンユーが実力に拘る理由と考えられますね。シンガポールはいまだに徴兵制を敷いて軍備増強に励み、その抵抗力を盾にして周辺国と対等の関係を築こうという方針は固いですね。

 クアンユーが国会に野党が存在することを快く思わないのも、彼らが国を運営する実力を持っていないからであり、無責任な彼らが政権交代を果たすと「脆弱」なシンガポールが大変なことになるとクアンユーは言っているが、強ち人民行動党支配の正当化のためだけの主張ではないと思う。

 日本でも1993年の政権交代を経ても自民党の1強時代が続いているし、若者が自民党支持の傾向があるのも政権運営をずっとしてきて実力を評価して投票しているように思える。本当は意識調査で若者の自民党支持の背景を調べるべきだが、それは後々の調査課題として今回は勘弁してください。

 シンガポールや日本でも野党が頼りないというのは2017年の現在の選挙の様子を見ても分かるが、私はどちらも野党の成長が政治的には望ましいのではと思う。シンガポールの政治エリート層は2011年選挙で野党の躍進を許して彼らとしては「敗北」を喫したといなや、スマート・ネーション構想や外国人労働者の締め付け等を行う等の民衆への感度は高いと思われる。

 しかし、将来も経済成長が今のペースで継続するかは疑問であり、経済成長の威信が無くなれば1強の人民行動党の権威も落ちて、政治的空白が到来すると思われる。実際に現首相のリー・シェンロンについては、クアンユーの遺言やリー一族の支配への是非についてきょうだい間で争っていることが報道され、政治的な安定性は落ちつつあると思う。

 2017年現在の日本では野党が政権のスキャンダル叩きに精を入れすぎて彼らの政策の独自性をアピールする機会を不意にして、蓮舫民進党が結局は支持率を伸ばせないし、都民ファーストというよく分からないし、分かりたくもないような政党が都議選で勝利したように野党の迷走が強まってしまった。どの政党に任せるかの政権選択ではなくて、自分たちにとって望ましい政策を推進する政党を選ぶという将来選択としての選挙が後退しているのは残念としか言いようがないであろう。もしくは、選挙が政府の統制手段としては時代遅れ、社会選択を政治がやるのも古い考えなのかとも思う。

 話をリー・クアンユーの本に戻せば、クアンユーの実力主義は遺伝学的にも実力主義である。引用すれば(p50)、

 「いつも品質のよいドリアンを望むなら、一番よいドリアンの芽を選んで接ぎ木するというのが言わなくてもわかる現実だ」。

 「遺伝学者でもないし遺伝子を作り変えることもできない」。

 「だから私が人々に言うのは『私は神ではない。神はあなたをいまのあなたとして造った。私はあなたを変えることはできないが、何かをよく行えるよう助けることはできる』ということだ。すべての人は人生において等しくチャンスを与えられるべきだが、等しい結果を期待するべきではない。」

 

 という感じである意味でシンガポール国家の特質を言い得ていると思える。この論拠としてクアンユーは中華民族では優秀な人間にはハーレムができて子孫をたくさん残し、弱い人間は子孫を残せなくて絶えていく。皇帝も科挙の最優秀者を自分の娘と結婚させて自分の一族に優秀な遺伝子が入ることを望んだと言っている。この哲学は日本のお家的な発想にも近いし、中華系の思想を強く思わせる発言だと思う。ヨーロッパでの血族概念がどこまで強いかは分からないが、極東地域での家概念は社会に根付いていると思う。それが今後に解体されるか、あるいは遺伝子の優性学的な概念として再結晶化するかは分からないが、クアンユーの発言にこういうことが言われたのは何かの因縁を感じる。遺伝子については、下記の記事で扱ったが、遺伝子と人のIQや能力との相関が騒がれだすと世界のホットなトピックになると思う。

遺伝子と社会の在り方を説く:安藤寿康『遺伝子の不都合な真実-すべての能力は遺伝である-』 - AtoPブログ~政策のヒントを目指して~

 クアンユーの実力主義はエリート支配の肯定を前提としたもので、生まれながらの格差を結果の均等化や機会の再配分で解消しようとするタイプの社会自由主義者とは相容れない考えだ。実力のあるものが要職を占めて社会を運営し、その実力が遺伝子(や教育環境)によって規定されていてもそれが自然(神)の摂理として当たり前だという論法である。このクアンユーの考えには生理的な反発を覚えるが、何が公正で平等なのかがあやふやなまま規範論を振りかざして具体策を示せない自称・リベラルが闊歩する現況では、うまく反論できないのではないかと思う。

 それでも、クアンユーへの反論を構成するリベラルの議論としてまず私が思い浮かぶのはロールズだが、私は社会での再配分が社会契約的な解釈で正当化されても、現実の社会における再配分のスティグマ性は拭いきれないと思うので、ロールズの再分配論は虚しく感じる。生活保護は社会的な扶助や社会における人権を保護するためにあるものだが、一時期ワーキングプアのような困窮した環境でも自活しようとする人々が一定数存在するように、社会的再配分を受けることには心理的な抵抗以上のある意味で自分の尊厳に関わることのように認識されることもある。社会自由主義と私が勝手に思っている人達は結局のところ再分配を主張すればそれで事足りると考えているのではないだろうか。結局は、クアンユーの「遺伝子は変えられないが、なにかする意思があるなら助けてやろう」という「上から目線」と微妙な違いしかないと思われる。そういう意味でロールズ流の再配分には人々の幸福追求の手段を保証する切り札となる概念が足りないと思う。

 

 

 

 さて、クアンユーの生まれつきの能力とそれに支えられた実力によって得られるものが決まるという考え方は、仮に自分が再配分の対象として恵まれていてもいなくとも人間社会における考え方において親和的なように思える。成果を挙げたものが勝者であり、立派な人間である。その人間が高い役職に就いて富と権威を持つことは適切な配分である。そうでない者は勝者からのおこぼれで自分の生活を送ることができる。

 遺伝や能力と格差の問題は根深いが、言論界における思想的な対立の帰結によって社会が一転していくようには思えないが、自分が社会やその人々を見る視点としてクアンユーの冷酷とも思えるエリート観を批判・吟味して自己の良心に問いかけてみるのも面白いのではないだろうか。

  また、シンガポールのエリートは学歴やIQだけでなく、奨学生段階ではEQや性格検査を多数受けさせたうえで本人のリーダーシップや価値観や組織能力等を徹底的に測った上で国費留学生を選抜していくことである。能力のある人間にだけ有限なる資源を投入するという効率重視の考えと、そのような能力を持つ人間を選り抜く能力が自分達にはあるという自信があるのだと思われる。無論、大学を卒業して政府や民間の実務に取り組むようになればその成果を問われるようになって実力重視を謳っている。

 しかし、私はどうしても彼等のやり方が正しいようには思えない。クアンユーが言うようにどうせ優秀じゃない人間と優秀じゃない人間から生まれた子供は優秀である確率は低いと言うが、本人に関係しない要素で君は優秀じゃない確率が高いから君への教育的な投資は少なくさせて貰うというのは唾棄すべき差別であると思う。黒人やヒスパニックの出身はIQが低いから彼等には大学の奨学金を与える価値がない、あるいは女性は正社員で雇ってもどうせ結婚して会社を辞めるから、女性には管理職としてのキャリアを設けないというのと論理は同じである。経済的合理性に反しても守るべき人間社会の価値観はあるはずであり、経済的合理性や経済成長や財産・富が人間社会で至上の価値という主張には異を唱えたい。

  全ての意見に賛成ではないが、危機的な状況における創業的リーダーとしての力量を随所に感じるところがあるし、自分の死後も機能する政府・政党を作り上げるために人材の発掘や育成に力を注いできたという言及もある。その点で参考になる彼の思想はあるかもしれない。

 なお、この本の執筆者の評価も加えさせてもらうが、インタヴューは厳しい質問をぶつけている様であるが、クアンユーの功績と批判は他の学者や歴史家の見解も参考にするべきであるし、彼が完全に引退に追い込まれた2011年選挙での人民行動党の敗北についてのコメントはない。クアンユーの持つ合理性がシンガポールの人々に支持されない場面もあることを示すには至っていないという評価も本書には下せるかもしれない。

 本日はこの辺で。次回更新は10月末予定です。

 

 

 

 

 

 

~安心を得るとはなにか~中谷内『安全。でも、安心できない』

 

安全。でも、安心できない…―信頼をめぐる心理学 (ちくま新書)

安全。でも、安心できない…―信頼をめぐる心理学 (ちくま新書)

 

 

 

中谷内(2008)『安全。でも、安心できない』

 

 私がこの本を紹介したいと思った理由が、工学的または科学的な「安全」と人々が抱く「安心」には複雑な距離があって、理性ありきの科学的思考だけでは解決できない問題があるということである。

 卑近な体験談を挙げれば、AIやロボットや先進医療等の新しい科学技術を社会の人々に安心して利用してもらうにはどうしたらいいかという議論において、人々に対して啓蒙して正しい知識を与えれば科学技術のリスクを適切に認識して安心して使ってくれる筈であるし、技術者や規制当局者は技術の安全確保に注力すべしという論調があると思う。そんな酷い言葉遣いをする人こそいないが、要するに無知だから人々は恐れをなすので、無知な人を減らそうというアプローチである。

 しかし、人間というのは情報を取捨選択する生き物であるし、いちいち自分が使っているPCやインターネットの作動原理やセキュリティー確保を厚い文献で調べる人なんて少ないし、皆が使っているように使えばいいみたいなヒューリスティックを活用して生きるのが人間の望む情報処理労力の削減にとって合理的であるだろう。だから、身近な存在にない新規の科学技術についての教育や啓蒙はあまり奏功していないように思える。

 著者の中谷内氏が言うように安全は安心の必要要素の一つであって、リスクを前にした人間が安心を得られる条件とは何かを考える必要があり、人間にも様々な動機によってタイプが分かれるとも述べている。日常生活に溢れているリスクに晒されている人間が安心を得るメカニズムについて、心理学の立場から様々な理論仮説を紹介している。

 その諸理論を総合して簡単に説明させて頂くと、一つに「信頼」の問題がある。製品やサービスの提供者や情報発信者への信頼によって、情報の非対称性のある物事への安心感が生まれるというものである。例えば、近所のスーパーで並んだ野菜に毒があるとは思わずに家で調理して口に入れることが出来るのもスーパーや農家への信頼があってこそで、遺伝子組み換え食品等を徹底して避ける人達にとって科学的な理由がたとえなくとも遺伝子組み換え食品を忌避すべきものと考えるのも信頼の問題である。

 また、信頼については食品偽装や福島の原発事故のように一度失われると回復するのが困難となる。加えて本人がもともと持っている認識からのバイアスを受けて信頼の判断材料となる情報の受容の仕方は変わるので、例えば自衛隊のある人間が犯罪に手を染めて逮捕されてもそれはほんの例外的な人間だと思うか、自衛隊のような人殺しの職業集団ではそういう人間ばかりがいるという証拠と捉えるかは、もともとの本人の自衛隊の信頼の度合いで評価がぶれることもある。

 リスクのマネジメントにあたる専門家や供給者等への信頼の形成には、人々がその専門家達に適切な能力と動機が備わっていると考えているかが重要となる。いくら慈愛に満ち溢れている良い人間であっても医師免許のない人間に対して手術をお願いする人はいないし、いくら立派な経歴の原発の専門家であっても政府の御用学者だと思われればその人たちの言葉の信用力は急落する。

 能力はさておき、専門家が人々に対して適切な情報発信をしていることを示すには一般の人に対しても誠実にコミュニケーションをとろうとし、都合の悪い情報でも情報が入り次第、即座にかつ冷静に発信することである。隠していると思われると信頼が崩壊して、例えば放射能物質の漏洩のように、原発への信頼だけでなく、福島産の農産物への世の信頼が失われるような事態が生じる。パニックを防ごうとしても情報は隠し通すのが難しいし、後続の研究でも指摘されているように隠し通せないことを政府がひた隠して後から原発の事故レベルを引き上げるのは目先の利益を追いかけた浅知恵と言われても仕方あるまい。

 誠実な動機付けとも近いが、情報の発信者が自分と同じ価値観を持っているかで信頼するかいなかも変わり、自分と同じ言語を話す人間をつい信用してしまうのもその例かもしれない(海外旅行で日本語を話す現地人や本当の日本人に対して甘くなって詐欺の被害に遭う人間はすくなくない)。問題への関心が高くて情報収集を行っている人達は価値の類似性で信頼できるかどうかを決める傾向がある(反対に関心が低い人はその問題で同じ立場の組織・人間を探索する動機もないであろうが)。

 地球温暖化のCO2削減について対立している環境省経産省の主張のどちらが正しいように感じるかは、その対立点に興味があることを前提として環境保護と経済的富のどちらに共感するかで人々の間で差異が見られることもある。他面から言えば、関心が高い人は価値類似度を量ることでその問題の解決によってどのような道義的価値が生じるかを重視する。関心が低い人はイシューに対する評価のプロセスや専門能力がしっかり反映されたかの形式で判断する(要は専門家の発言かどうか、正式・公式な組織の発表であるか)。

 信頼以外の要素としては感情も重要である。あなたが60日後に必ず死ぬ病気を抱えた患者に対して治療方針を決める医者の立場にあるとして、「今すぐに投与しないと効果がない上に35%の確率で患者が死亡するが、65%の確率で患者を救命できる薬をいま投与する」、あるいは「30%の確率で患者を治療出来る副作用のない薬を与えて、患者が死んでしまう60日後よりも前に、70%の確率で患者を治療できる研究中の新薬の開発を待つか」の二択を迫られた場合に、あなたはどのような決断をするであろうか。

 直観的に前者の選択が受け入れがたいと感じる人は少なくないと思うが、後者の選択についてある程度の過程を置いて、両方の選択肢の救命確率を検討してみれば、前者の選択が合理的な場合も多いことに気付くであろう。前者の救命確率は0.65である。後者の救命確率は、(0.3+0.7×[60日以内に新薬が開発される確率])である。つまり、後者の選択肢の救命確率が前者を上回るのは、60日以内に新薬が開発される確率が50%以上でなくてはならない。後者の選択が直観的には合理的と感じて選択した人は、新薬の開発確率が50%以上であろうと考えながら選択しただろうか。もしくは、「35%の確率で死ぬ」という選択肢を避けたかっただけに後者を選んだのではないだろうか。

 

 犯罪発生件数の予測でも一般市民は財産犯の件数を軽く見積もって、身体犯を重く見積もり、プロの警察官の予測と比べても大きなバイアスがあるという調査が文献で紹介されている。「死ぬ」、「殺される」、「殴られる」のような嫌悪感を催すものがリスク評価の比重を強める。性犯罪に遭った女性のニュースでも井戸端の世間話やネットの界隈では「あの子は昔から夜遊びをしていた」、「遊んでそうな顔の女だ」、「派手な格好をしているから仕方ない」等の噂が流れやすいが、これも性犯罪が強い生理的嫌悪感を呼び、自分の親しい人間や家族は被害者と違う人間だからと思って安心したい心理も存在する。

 本書では具体的でもっと適切な例を、分かりやすい言葉でもって説明しているし、手軽な新書なので、技術者の人は是非読んでみてはいかがだろうか。また科学技術の社会実装を担う人達も本書で社会の人々との向き合い方を考える材料にしてもいいと思う。

 ここから、少しこの本で得た知識から論評していくが、行政にもしっかり社会心理学やコミュニケーション理論を体得した人間が必要であるし、リスクコミュニケーション分野以外でも基本的な方法論はこれからの施策の検討や過去の失敗の反省に役立つものである。福島の原発事故でもコミュニケーションの問題は指摘されたが、これは原発事故以外でもテロ事件勃発後の政府広報の在り方でも共通であり、海外のテロ対策専門家も口を酸っぱくして情報開示の迅速さと透明さの確保と冷静な態度で国民とメディアに臨むことを推奨している。

 割と新しいテーマであるし、自分も最近までこのような心理学的アプローチがあるとは知らなかったが、政策のヒントになる新しい知見を行政に取り込むルートがないのは残念であるし、法学部偏重のせいではないかと身内なのでばっさり批判したくなる。法律も重要であるが、法律を学んで役所の慣例を踏襲してという思考様式では新しい学問の知見や社会のニーズに追いつけないと思う。

 ミーハーなので言及すれば、経産省の「不安な個人、立ちすくむ国家」のレポートにおいてあたかも(大)企業に入って定年まで働くのが日本人のモデルのような書き方をしていたが、1980年代は自営業や家族従業者で30%はあったし、具体的な数値は用意できなかったがリストラや企業の倒産に遭わずに同じ会社で勤続できた人ばかりでもない。周りの人間や自分たちの常識を参考にして書いている部分も少なくないし、レポートに列記された大先生の多数は自分の専門と違う社会学的なレポートに名前を使われて困惑していないだろうか。あえて具体的な提言を書かずに市民の人々の意見を喚起して取り込もうとした意図があるようだし、海外の政策モデルを取り込むだけで事足りた時代は終わっていると思うので経産省のレポートに共感するところもあるが、法律だけでも経済理論だけでもない政策立案・形成の専門家集団としての能力も大事だと思う。コミュニケーションや心理学からの発想はより重要だと思われる。

遺伝子と社会の在り方を説く:安藤寿康『遺伝子の不都合な真実-すべての能力は遺伝である-』

 

遺伝子の不都合な真実―すべての能力は遺伝である (ちくま新書)

遺伝子の不都合な真実―すべての能力は遺伝である (ちくま新書)

 

 

 ブログの文献紹介の第一弾が、こんな危なげなタイトルの本でいいのかとも内心思いましたが、人間の学力あるいは才能がその人の努力や教育環境だけで決まる訳ではないことを明らかにした双子研究の紹介です。

 しかし、この研究の解釈が、ひたすらにこの研究の倫理性を非難する、あるいは遺伝子という自分では変えられない存在によって人間の能力を分析して教育や本人の努力を否定するのはけしからんという原理的な否定に走る人、あるいは研究結果を拡大解釈して「学力は7割才能で決まるから教育によって学力を高めるのは非効率、無駄」、あるいは「勉強が出来ない子供は等しくDNAのせいだから何か手を施すだけ無駄」、はたまた「この研究によればDNAで年収もある程度決まるならベーシック・インカムが平等である」といったDNA至上主義に走る人がいます。

(こちらの

教育、犯罪、精神疾患…行動遺伝学の知見が明らかにする“不都合な真実” – 橘玲 (1/2)

は、「親は子どもに成長にほとんど影響を与えられない」と解釈していますが、あくまで統計的に世の中に存在する子供の学力のバラつきを説明する要素として、名門幼稚園に入れたかどうかの要素で説明できるかどうかの研究を下敷きにして、特定の教育や環境が子供の成長に影響を与えないという結論を引き出している「フェイク・ニュース」です。むしろ父親が子供の勉強を見るのが学習時間の向上に繋がるという研究もありますし、その研究で遺伝的な説明変数は組み込まれていませんが、安直な研究解釈で子供への教育意欲を奪うような記事を書いた執筆者の責任は重大だと思います。)

 

 私はそれらの両極端な態度は非合理だと思いますし、特にDNA至上主義的な研究解釈は間違っているということを述べたいのですが、本書の要約をすっぱ抜いてこの本を敢えて読もうとする人たちが減ってしまうと残念ですので、重要なポイントだけ説明します。

 一つの卵子から二人の子供が生まれてくる一卵性双生児(=共通の遺伝子を持つ双子)と二つの卵子から各々一人の子供が生まれる二卵性双生児(=期待値として50%の共通の遺伝子を持つ双子)の比較研究から、遺伝子の差異によってIQの数値の6割ほどが説明できるという研究結果を紹介しておりまして、その他の学業成績や知識や記憶も5割以上説明でき、性格や精神疾患も3割説明できるということもその研究結果から分かったようです。また、遺伝子以外の要因でも共有環境よりも非共有環境の方が説明力を持つことが多く、つまりは同じ環境にいても個人ごとにその環境からの学習の仕方が違ったり、同じ家庭や地域でも別々の学習を積むということです。ですので、同じ学校で同じ授業を受けても能力が均等化するとは限らないという意味合いです。

(その一覧表は、日本子ども学会さんの以下のページに安藤氏の解説込みで紹介されています。このページで紹介しなかった多くの事柄も当ページで紹介されています。)

第2回「遺伝子は『不都合な真実』か?」(1) - 日本子ども学会 ~子どもたちの健やかな成育環境づくりを支援します~

 

 補足として環境によって遺伝子の発現も変わりますし、アメリカとスウェーデンでの双生児研究において収入に関する遺伝子の寄与率でスウェーデンの方が低く出たということも紹介されておりまして、スウェーデンの研究の方がサンプル数が大きくて正確だったのでズレが生じたのかもしれませんが、福祉や教育などの社会制度の問題も寄与している可能性があります。

 また、あくまで世の中に存在する個人の差を遺伝子によってどれだけ説明できるかであり、仮に特定の教育やトレーニングを受けた人の能力に対して遺伝子の説明力の寄与率が下がるかもしれませんし、全ての人が等しい割合で遺伝子の影響を受けているという証拠にもなりません。あくまで平均して〇〇%の世界です。つまり、たとえ遺伝的にある能力が低い人でもトレーニングによって能力を高められるかは、ヒトのDNAと能力値の相関関係を眺めただけでは結論は下せません。それを履き違えて疑似科学に走るDNA主義者も残念ながら存在します。

 加えて、親から2対ある遺伝子のどちらを貰えるかはランダムですので、親の能力から子供の能力が予測できるとも限りませんし、能力に関係する遺伝子は無数にあってどれかの一つの遺伝子が知能を10%上昇させるというデータもありません。

 このような研究データをもとに安藤氏はロールズのいうように才能を公共財として、才能から得られた財も再分配の対象となるという有名な議論を引いてきたり、能力の選別ばかりが横行する今の日本の教育にも鋭い批判を述べておりまして、そこも読んでみる価値があります(安藤氏は行動遺伝学の研究者でもあり、教育学者でもある人です)。

 ここから感想に移らせてもらいます。

 本書の安藤氏が言うようにあるべき理想的な規範を現実と混合すると、「自由競争のもとで勝ち組に入った人間はしっかりとトレーニングを積んで真面目にコツコツやってきた人たちである」、「非正規で低収入の人達は努力が足りてない怠け者だから、援助よりも厳しくすることで奴らの努力を引き出せる」等々、本人の意思や努力に起因して経済的苦境に陥っていると捉える人達も少なくありません。本人の努力を褒め称えて応援することもその人のモチベーションの維持に有益であると何かの教育心理学で読んだような気がしますが、「落ちこぼれ=怠け者」と捉えてその人達を落伍させていくという心理は、公立の小中学校の授業進行の在り方に存在しているのでとも思いますし、その人間がどこまで努力して学習できるかを図る数値としての「学力」と偏差値を生徒にアウトプットさせて選別するためだけの役割に学校教育が甘んじてしまった面もあると思います。

 学力が将来の社会的な成功を呼ぶとも限りませんし、本書でもいうようにIQだけでは収入の3割しか説明できません。学力偏重にして、生徒に均一に学習指導要領で指定された知識を埋め込む教育が成功しているならまだしも著しい学力格差を生んで実施されている位なら、学習指導要領の内容を絞って生徒一人一人の才能を伸ばせるような個別化した教育を少しずつ取り入れていく方向にシフトするべきだと思います。

 官僚と自称・教育専門家達の愚かな人体実験と化した「ゆとり教育」は土曜授業を削って多くの生徒の学習時間を減らさせ(苅谷さんの研究が有名でしょうか)、塾に行った子供だけ学力が維持されましたが、本来は学習指導要領の内容を減らした分の時間を生徒に職業体験やプログラミングやデザインや教養教育の機会を学校で与える仕組みにするべきだったと思います。授業を減らせば生徒の個性が伸ばせるという、政策のプロセスの想像力が貧困な人達には困りものですが少なくとも、学力以外の生徒の個性を伸ばすという方針に間違いはなかったと思います。

 

 他方、安藤氏はロールズ流の再分配にシンパシーを出していますが、私は最初違和感を覚えました。ロールズのいうように稼げる人は社会契約流の正当化によって貧しくて困っている人達に分け前を差し出せというのは、「なんで頑張って稼いできた俺の分け前を渡さないといけないんだ」、「そもそも社会契約なんか結んだ覚えもないし、そんなの知ったことではない」、「怠惰な人達に生活保護を与えるのは社会で怠けることを推奨しているのと同じ」という反発を覚える人もいると思います(ポリティカル・コレクトネス違反の批判はバッシングの嵐を呼ぶでしょうが)。かく言う私も求職の意欲もなくて子育てもまともに出来ない人には自分の所得をすすんで渡したいとも思いません。「君には才能があって少しは稼いでいるのだから、そうではない人たちに稼ぎを渡しなさい」は飲み込みずらいと思います。会社に就職できなくても街の清掃をしたり、子供の教育を頑張るとか少しは社会のために働いてくれよとも思います。

 しかし、残念なことに本人に帰責できない理由で生活保護に陥っているかどうかの真実は簡単に判断できませんので、本当に困っている人、あるいは困っているように装って不正受給をする人の両方がいます。不正受給者のせいで生活保護全体の印象が悪くなるのは残念です。

 ここで思うに、生活保護が社会の腫れ物(スティグマ)として機能してしまう原因として、制度の思想として「生活保護は働く意思の希薄で怠惰な恥ずかしい人達というレッテルを張って、そのレッテルから逃れるために生活保護受給者が仕事へのやる気と努力を回復させるようにしよう」というものがあると思います。しかし、安藤氏がいうように遺伝子というその人の個性や能力を生み出す先天的な要因の力が無視できなければ、生活保護を恥の対象とするよりも、生活保護受給者でも社会に受け入れられるように彼らに簡単なボランティアの役目を与えて社会貢献の機会を持たせた方がよいのではと思います。社会貢献を少しでも出来ていれば生活保護者を社会のお荷物と厳しく当たる人達も減りますし、不正受給している人達の「ナマポ」天国の居心地も悪くなると思います。

 

 個人の出来・不出来には如何ともしがたいならば、それぞれの得意な才能を伸ばす、あるいは何かしらの理由で苦境に陥っている人も「スティグマ」の対象とせずに彼らが社会で受け入れられるようにする余地を作るのが良いのではないでしょうか。

 

 途中から脱線したかもしれませんが、皆さんも『遺伝子の不都合な真実』に込められた安藤氏のメッセージを読んでみませんか?

 今回はこれでおしまいです。読了、ありがとうございました。

当ブログの記事の分類一覧

当ブログで扱っている文献や研究論文の紹介を分類して一覧にしました。興味ある分野・カテゴリーから記事を探し出してください。

 

~学問分野による分類~

政治学行政学

 

<政策学>

 

社会学

<遺伝学>

安藤寿康(2012)『遺伝子の不都合な真実』 

http://atop-policyhint.hatenablog.com/entry/2017/06/24/134957

 

 

 

~内容による分類~

 

<政策を実行する組織設計に関する知識>

 

<政策手段・実施に関する知識>

 

<比較分析・事例研究>

 

<政策を立案するための社会に関する知識・理論>

(自然科学系)

(社会科学系)

安藤寿康(2012)『遺伝子の不都合な真実』 

http://atop-policyhint.hatenablog.com/entry/2017/06/24/134957