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~安心を得るとはなにか~中谷内『安全。でも、安心できない』

 

安全。でも、安心できない…―信頼をめぐる心理学 (ちくま新書)

安全。でも、安心できない…―信頼をめぐる心理学 (ちくま新書)

 

 

 

中谷内(2008)『安全。でも、安心できない』

 

 私がこの本を紹介したいと思った理由が、工学的または科学的な「安全」と人々が抱く「安心」には複雑な距離があって、理性ありきの科学的思考だけでは解決できない問題があるということである。

 卑近な体験談を挙げれば、AIやロボットや先進医療等の新しい科学技術を社会の人々に安心して利用してもらうにはどうしたらいいかという議論において、人々に対して啓蒙して正しい知識を与えれば科学技術のリスクを適切に認識して安心して使ってくれる筈であるし、技術者や規制当局者は技術の安全確保に注力すべしという論調があると思う。そんな酷い言葉遣いをする人こそいないが、要するに無知だから人々は恐れをなすので、無知な人を減らそうというアプローチである。

 しかし、人間というのは情報を取捨選択する生き物であるし、いちいち自分が使っているPCやインターネットの作動原理やセキュリティー確保を厚い文献で調べる人なんて少ないし、皆が使っているように使えばいいみたいなヒューリスティックを活用して生きるのが人間の望む情報処理労力の削減にとって合理的であるだろう。だから、身近な存在にない新規の科学技術についての教育や啓蒙はあまり奏功していないように思える。

 著者の中谷内氏が言うように安全は安心の必要要素の一つであって、リスクを前にした人間が安心を得られる条件とは何かを考える必要があり、人間にも様々な動機によってタイプが分かれるとも述べている。日常生活に溢れているリスクに晒されている人間が安心を得るメカニズムについて、心理学の立場から様々な理論仮説を紹介している。

 その諸理論を総合して簡単に説明させて頂くと、一つに「信頼」の問題がある。製品やサービスの提供者や情報発信者への信頼によって、情報の非対称性のある物事への安心感が生まれるというものである。例えば、近所のスーパーで並んだ野菜に毒があるとは思わずに家で調理して口に入れることが出来るのもスーパーや農家への信頼があってこそで、遺伝子組み換え食品等を徹底して避ける人達にとって科学的な理由がたとえなくとも遺伝子組み換え食品を忌避すべきものと考えるのも信頼の問題である。

 また、信頼については食品偽装や福島の原発事故のように一度失われると回復するのが困難となる。加えて本人がもともと持っている認識からのバイアスを受けて信頼の判断材料となる情報の受容の仕方は変わるので、例えば自衛隊のある人間が犯罪に手を染めて逮捕されてもそれはほんの例外的な人間だと思うか、自衛隊のような人殺しの職業集団ではそういう人間ばかりがいるという証拠と捉えるかは、もともとの本人の自衛隊の信頼の度合いで評価がぶれることもある。

 リスクのマネジメントにあたる専門家や供給者等への信頼の形成には、人々がその専門家達に適切な能力と動機が備わっていると考えているかが重要となる。いくら慈愛に満ち溢れている良い人間であっても医師免許のない人間に対して手術をお願いする人はいないし、いくら立派な経歴の原発の専門家であっても政府の御用学者だと思われればその人たちの言葉の信用力は急落する。

 能力はさておき、専門家が人々に対して適切な情報発信をしていることを示すには一般の人に対しても誠実にコミュニケーションをとろうとし、都合の悪い情報でも情報が入り次第、即座にかつ冷静に発信することである。隠していると思われると信頼が崩壊して、例えば放射能物質の漏洩のように、原発への信頼だけでなく、福島産の農産物への世の信頼が失われるような事態が生じる。パニックを防ごうとしても情報は隠し通すのが難しいし、後続の研究でも指摘されているように隠し通せないことを政府がひた隠して後から原発の事故レベルを引き上げるのは目先の利益を追いかけた浅知恵と言われても仕方あるまい。

 誠実な動機付けとも近いが、情報の発信者が自分と同じ価値観を持っているかで信頼するかいなかも変わり、自分と同じ言語を話す人間をつい信用してしまうのもその例かもしれない(海外旅行で日本語を話す現地人や本当の日本人に対して甘くなって詐欺の被害に遭う人間はすくなくない)。問題への関心が高くて情報収集を行っている人達は価値の類似性で信頼できるかどうかを決める傾向がある(反対に関心が低い人はその問題で同じ立場の組織・人間を探索する動機もないであろうが)。

 地球温暖化のCO2削減について対立している環境省経産省の主張のどちらが正しいように感じるかは、その対立点に興味があることを前提として環境保護と経済的富のどちらに共感するかで人々の間で差異が見られることもある。他面から言えば、関心が高い人は価値類似度を量ることでその問題の解決によってどのような道義的価値が生じるかを重視する。関心が低い人はイシューに対する評価のプロセスや専門能力がしっかり反映されたかの形式で判断する(要は専門家の発言かどうか、正式・公式な組織の発表であるか)。

 信頼以外の要素としては感情も重要である。あなたが60日後に必ず死ぬ病気を抱えた患者に対して治療方針を決める医者の立場にあるとして、「今すぐに投与しないと効果がない上に35%の確率で患者が死亡するが、65%の確率で患者を救命できる薬をいま投与する」、あるいは「30%の確率で患者を治療出来る副作用のない薬を与えて、患者が死んでしまう60日後よりも前に、70%の確率で患者を治療できる研究中の新薬の開発を待つか」の二択を迫られた場合に、あなたはどのような決断をするであろうか。

 直観的に前者の選択が受け入れがたいと感じる人は少なくないと思うが、後者の選択についてある程度の過程を置いて、両方の選択肢の救命確率を検討してみれば、前者の選択が合理的な場合も多いことに気付くであろう。前者の救命確率は0.65である。後者の救命確率は、(0.3+0.7×[60日以内に新薬が開発される確率])である。つまり、後者の選択肢の救命確率が前者を上回るのは、60日以内に新薬が開発される確率が50%以上でなくてはならない。後者の選択が直観的には合理的と感じて選択した人は、新薬の開発確率が50%以上であろうと考えながら選択しただろうか。もしくは、「35%の確率で死ぬ」という選択肢を避けたかっただけに後者を選んだのではないだろうか。

 

 犯罪発生件数の予測でも一般市民は財産犯の件数を軽く見積もって、身体犯を重く見積もり、プロの警察官の予測と比べても大きなバイアスがあるという調査が文献で紹介されている。「死ぬ」、「殺される」、「殴られる」のような嫌悪感を催すものがリスク評価の比重を強める。性犯罪に遭った女性のニュースでも井戸端の世間話やネットの界隈では「あの子は昔から夜遊びをしていた」、「遊んでそうな顔の女だ」、「派手な格好をしているから仕方ない」等の噂が流れやすいが、これも性犯罪が強い生理的嫌悪感を呼び、自分の親しい人間や家族は被害者と違う人間だからと思って安心したい心理も存在する。

 本書では具体的でもっと適切な例を、分かりやすい言葉でもって説明しているし、手軽な新書なので、技術者の人は是非読んでみてはいかがだろうか。また科学技術の社会実装を担う人達も本書で社会の人々との向き合い方を考える材料にしてもいいと思う。

 ここから、少しこの本で得た知識から論評していくが、行政にもしっかり社会心理学やコミュニケーション理論を体得した人間が必要であるし、リスクコミュニケーション分野以外でも基本的な方法論はこれからの施策の検討や過去の失敗の反省に役立つものである。福島の原発事故でもコミュニケーションの問題は指摘されたが、これは原発事故以外でもテロ事件勃発後の政府広報の在り方でも共通であり、海外のテロ対策専門家も口を酸っぱくして情報開示の迅速さと透明さの確保と冷静な態度で国民とメディアに臨むことを推奨している。

 割と新しいテーマであるし、自分も最近までこのような心理学的アプローチがあるとは知らなかったが、政策のヒントになる新しい知見を行政に取り込むルートがないのは残念であるし、法学部偏重のせいではないかと身内なのでばっさり批判したくなる。法律も重要であるが、法律を学んで役所の慣例を踏襲してという思考様式では新しい学問の知見や社会のニーズに追いつけないと思う。

 ミーハーなので言及すれば、経産省の「不安な個人、立ちすくむ国家」のレポートにおいてあたかも(大)企業に入って定年まで働くのが日本人のモデルのような書き方をしていたが、1980年代は自営業や家族従業者で30%はあったし、具体的な数値は用意できなかったがリストラや企業の倒産に遭わずに同じ会社で勤続できた人ばかりでもない。周りの人間や自分たちの常識を参考にして書いている部分も少なくないし、レポートに列記された大先生の多数は自分の専門と違う社会学的なレポートに名前を使われて困惑していないだろうか。あえて具体的な提言を書かずに市民の人々の意見を喚起して取り込もうとした意図があるようだし、海外の政策モデルを取り込むだけで事足りた時代は終わっていると思うので経産省のレポートに共感するところもあるが、法律だけでも経済理論だけでもない政策立案・形成の専門家集団としての能力も大事だと思う。コミュニケーションや心理学からの発想はより重要だと思われる。