AtoPブログ~政策のヒントを目指して~

独り言・書評 ―紙と机の上で社会と政策と将来を考える―

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クアンユーの実力主義哲学~リー・クアンユー(2014)『リー・クアンユー 未来への提言』~

 

リー・クアンユー、未来への提言

リー・クアンユー、未来への提言

 

 

 更新が滞ってしまいましたが、ほぼ二カ月ぶりですね。紹介するのに良い本が見つかってから書こうかと思っていたら結構日が経ってしまいました。読者なんか全くいないようので勝手なペースで更新してもいいのですが、将来にブログの定期購読者が出ると楽観的に考えて、毎月末に1冊紹介するのがよいかもしれません。今回は二か月ほど空いたので急遽書きますが、次回は余裕持って来月ですかね。それに前の記事の添削もしておこうかなと。

 

 それで今回は『リー・クアンユー 未来への提言』です。今回は政策と無縁ですが、シンガポール(人民行動党)の政治哲学を学ぶために、岩崎育夫さんの『物語 シンガポールの歴史』を思い出しながら、現代の政治社会を考える意味でも紹介しようと思いました。

 まず、リー・クアンユーがインタヴューで語る上でのキーワードは徹底的な実力主義哲学ですね。若い時には自分も留学したことのあるイギリス支配下でのシンガポール時代を生き、WW2では日本の苛烈な占領統治で命からがら虐殺を免れた経験を持ち、国内の共産主義シンパと権力闘争しながらシンガポールのリーダーになっても、マレーシアから追放されて記者会見で男泣きをし、インドネシアやマレーシアに囲まれて時には脅迫されるといった苦労こそリー・クアンユーが実力に拘る理由と考えられますね。シンガポールはいまだに徴兵制を敷いて軍備増強に励み、その抵抗力を盾にして周辺国と対等の関係を築こうという方針は固いですね。

 クアンユーが国会に野党が存在することを快く思わないのも、彼らが国を運営する実力を持っていないからであり、無責任な彼らが政権交代を果たすと「脆弱」なシンガポールが大変なことになるとクアンユーは言っているが、強ち人民行動党支配の正当化のためだけの主張ではないと思う。

 日本でも1993年の政権交代を経ても自民党の1強時代が続いているし、若者が自民党支持の傾向があるのも政権運営をずっとしてきて実力を評価して投票しているように思える。本当は意識調査で若者の自民党支持の背景を調べるべきだが、それは後々の調査課題として今回は勘弁してください。

 シンガポールや日本でも野党が頼りないというのは2017年の現在の選挙の様子を見ても分かるが、私はどちらも野党の成長が政治的には望ましいのではと思う。シンガポールの政治エリート層は2011年選挙で野党の躍進を許して彼らとしては「敗北」を喫したといなや、スマート・ネーション構想や外国人労働者の締め付け等を行う等の民衆への感度は高いと思われる。

 しかし、将来も経済成長が今のペースで継続するかは疑問であり、経済成長の威信が無くなれば1強の人民行動党の権威も落ちて、政治的空白が到来すると思われる。実際に現首相のリー・シェンロンについては、クアンユーの遺言やリー一族の支配への是非についてきょうだい間で争っていることが報道され、政治的な安定性は落ちつつあると思う。

 2017年現在の日本では野党が政権のスキャンダル叩きに精を入れすぎて彼らの政策の独自性をアピールする機会を不意にして、蓮舫民進党が結局は支持率を伸ばせないし、都民ファーストというよく分からないし、分かりたくもないような政党が都議選で勝利したように野党の迷走が強まってしまった。どの政党に任せるかの政権選択ではなくて、自分たちにとって望ましい政策を推進する政党を選ぶという将来選択としての選挙が後退しているのは残念としか言いようがないであろう。もしくは、選挙が政府の統制手段としては時代遅れ、社会選択を政治がやるのも古い考えなのかとも思う。

 話をリー・クアンユーの本に戻せば、クアンユーの実力主義は遺伝学的にも実力主義である。引用すれば(p50)、

 「いつも品質のよいドリアンを望むなら、一番よいドリアンの芽を選んで接ぎ木するというのが言わなくてもわかる現実だ」。

 「遺伝学者でもないし遺伝子を作り変えることもできない」。

 「だから私が人々に言うのは『私は神ではない。神はあなたをいまのあなたとして造った。私はあなたを変えることはできないが、何かをよく行えるよう助けることはできる』ということだ。すべての人は人生において等しくチャンスを与えられるべきだが、等しい結果を期待するべきではない。」

 

 という感じである意味でシンガポール国家の特質を言い得ていると思える。この論拠としてクアンユーは中華民族では優秀な人間にはハーレムができて子孫をたくさん残し、弱い人間は子孫を残せなくて絶えていく。皇帝も科挙の最優秀者を自分の娘と結婚させて自分の一族に優秀な遺伝子が入ることを望んだと言っている。この哲学は日本のお家的な発想にも近いし、中華系の思想を強く思わせる発言だと思う。ヨーロッパでの血族概念がどこまで強いかは分からないが、極東地域での家概念は社会に根付いていると思う。それが今後に解体されるか、あるいは遺伝子の優性学的な概念として再結晶化するかは分からないが、クアンユーの発言にこういうことが言われたのは何かの因縁を感じる。遺伝子については、下記の記事で扱ったが、遺伝子と人のIQや能力との相関が騒がれだすと世界のホットなトピックになると思う。

遺伝子と社会の在り方を説く:安藤寿康『遺伝子の不都合な真実-すべての能力は遺伝である-』 - AtoPブログ~政策のヒントを目指して~

 クアンユーの実力主義はエリート支配の肯定を前提としたもので、生まれながらの格差を結果の均等化や機会の再配分で解消しようとするタイプの社会自由主義者とは相容れない考えだ。実力のあるものが要職を占めて社会を運営し、その実力が遺伝子(や教育環境)によって規定されていてもそれが自然(神)の摂理として当たり前だという論法である。このクアンユーの考えには生理的な反発を覚えるが、何が公正で平等なのかがあやふやなまま規範論を振りかざして具体策を示せない自称・リベラルが闊歩する現況では、うまく反論できないのではないかと思う。

 それでも、クアンユーへの反論を構成するリベラルの議論としてまず私が思い浮かぶのはロールズだが、私は社会での再配分が社会契約的な解釈で正当化されても、現実の社会における再配分のスティグマ性は拭いきれないと思うので、ロールズの再分配論は虚しく感じる。生活保護は社会的な扶助や社会における人権を保護するためにあるものだが、一時期ワーキングプアのような困窮した環境でも自活しようとする人々が一定数存在するように、社会的再配分を受けることには心理的な抵抗以上のある意味で自分の尊厳に関わることのように認識されることもある。社会自由主義と私が勝手に思っている人達は結局のところ再分配を主張すればそれで事足りると考えているのではないだろうか。結局は、クアンユーの「遺伝子は変えられないが、なにかする意思があるなら助けてやろう」という「上から目線」と微妙な違いしかないと思われる。そういう意味でロールズ流の再配分には人々の幸福追求の手段を保証する切り札となる概念が足りないと思う。

 

 

 

 さて、クアンユーの生まれつきの能力とそれに支えられた実力によって得られるものが決まるという考え方は、仮に自分が再配分の対象として恵まれていてもいなくとも人間社会における考え方において親和的なように思える。成果を挙げたものが勝者であり、立派な人間である。その人間が高い役職に就いて富と権威を持つことは適切な配分である。そうでない者は勝者からのおこぼれで自分の生活を送ることができる。

 遺伝や能力と格差の問題は根深いが、言論界における思想的な対立の帰結によって社会が一転していくようには思えないが、自分が社会やその人々を見る視点としてクアンユーの冷酷とも思えるエリート観を批判・吟味して自己の良心に問いかけてみるのも面白いのではないだろうか。

  また、シンガポールのエリートは学歴やIQだけでなく、奨学生段階ではEQや性格検査を多数受けさせたうえで本人のリーダーシップや価値観や組織能力等を徹底的に測った上で国費留学生を選抜していくことである。能力のある人間にだけ有限なる資源を投入するという効率重視の考えと、そのような能力を持つ人間を選り抜く能力が自分達にはあるという自信があるのだと思われる。無論、大学を卒業して政府や民間の実務に取り組むようになればその成果を問われるようになって実力重視を謳っている。

 しかし、私はどうしても彼等のやり方が正しいようには思えない。クアンユーが言うようにどうせ優秀じゃない人間と優秀じゃない人間から生まれた子供は優秀である確率は低いと言うが、本人に関係しない要素で君は優秀じゃない確率が高いから君への教育的な投資は少なくさせて貰うというのは唾棄すべき差別であると思う。黒人やヒスパニックの出身はIQが低いから彼等には大学の奨学金を与える価値がない、あるいは女性は正社員で雇ってもどうせ結婚して会社を辞めるから、女性には管理職としてのキャリアを設けないというのと論理は同じである。経済的合理性に反しても守るべき人間社会の価値観はあるはずであり、経済的合理性や経済成長や財産・富が人間社会で至上の価値という主張には異を唱えたい。

  全ての意見に賛成ではないが、危機的な状況における創業的リーダーとしての力量を随所に感じるところがあるし、自分の死後も機能する政府・政党を作り上げるために人材の発掘や育成に力を注いできたという言及もある。その点で参考になる彼の思想はあるかもしれない。

 なお、この本の執筆者の評価も加えさせてもらうが、インタヴューは厳しい質問をぶつけている様であるが、クアンユーの功績と批判は他の学者や歴史家の見解も参考にするべきであるし、彼が完全に引退に追い込まれた2011年選挙での人民行動党の敗北についてのコメントはない。クアンユーの持つ合理性がシンガポールの人々に支持されない場面もあることを示すには至っていないという評価も本書には下せるかもしれない。

 本日はこの辺で。次回更新は10月末予定です。