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科学技術のガバナンスの「意義」とは何か?:城山英明(2007)『科学技術ガバナンス』

 

 私生活の諸事情で更新が滞りました。これからも定期更新できるか不明ですので、当面は不定期更新で細々とやっていくつもりです。

 では、今回も書籍の紹介と考察を述べさせて頂きます。

 

科学技術ガバナンス (未来を拓く人文・社会科学シリーズ)

科学技術ガバナンス (未来を拓く人文・社会科学シリーズ)

 

 

 「科学技術ガバナンス」という言葉は科学技術社会論や科学技術政策論の文脈で登場する言葉であるが、本書の定義で城山英明は、「科学技術は多様な社会的合意を持つ」と述べた上で、「社会と科学技術との境界には、様々な問題や考慮事項が存在し。それらを踏まえて、社会的判断を行わなければならない。このような社会的判断という機能のための仕組みが必要であり、様々な問題に対処するための具体的な制度設計のあり方が重要になる。このような仕組みや具体的な制度設計が、科学技術ガバナンスである」(p44)としている。

 そして、「科学技術ガバナンスにおいては、様々な分野の専門家、様々なレベルの政府(国際組織、国、地方自治体)、様々な団体(専門家団体、事業者団体等)や市民といった多様なアクターが連携・分担、時に対立しつつ、科学技術と社会の境界に存在する諸問題をマネジメントしていく」(p44)と、科学技術ガバナンスの機能を説明している。

 この議論の含意を考えるためには、上記のような科学技術ガバナンス概念が持ち上げられた背景を考える必要がある。

 背景としては、20世紀に利用が開始された原子力(出版された当時は2007年であったので、福島の原発事故は起きていない)や、20世紀末から21世紀にかけて遺伝子組換技術やクローン技術やナノマテリアル等の社会的リスクや倫理的な問題を含んだ科学技術をどう社会的に管理・規制していくかという問題が持ち上がったことが一つにある。

 あるいは、英国のBSE対応の問題で、発覚当初に政府によって「BSEにかかった牛を食べてもヒトに感染しない」と発表され、感染者が続出してから後からBSEがヒトに感染することが政府から発表されて、政府や専門家の信頼が失墜した事件や、SARS対応における中国政府の初動・報告の遅れや隠蔽疑惑(私には能動的に隠蔽したというより、機能不全化した官僚制が原因のようにも思えるが)のように、科学的な判断に基づいた判断が社会的混乱や経済的損失と天秤を掛けられた場合に狂わされる事例もある。

 狭義の科学研究は真理の探求という目的があるので、社会・政治的圧力によって科学の知が捻じ曲げられるということは、例えばガリレオの時代には問題化したが、現代の自由・民主主義国家においてはきわめて稀なことだと思える(無論、どの研究に資金が供給されるかには政治的コントロールが働き、権力の行使は知識自体にではなく、資金や組織に向けられる)。しかし、社会での科学的知識の応用を目指した工学・技術においては無論、科学の知見から政治的判断を下す場合には、科学知の利用は社会的な要請や政治的力学に晒される。あるいは、ウイルスの合成も可能になってきた合成生物学や高度な判断を下せるようになってきたAIの研究も、真理追求型の科学研究の形をとっていてもその知識の応用によっては多大なる社会的インパクトを生む意味で、科学研究の自粛も必要になることも考えられる(有名な例は、遺伝子組換研究に関してガイドラインが出来るまで研究の中止さえも議論された1975年アシロマ会議がある)。科学技術と社会の相互作用が強まってきているこの時代に、科学技術をどう社会や研究者がマネジメントしていくかを論じるための科学技術ガバナンスという言葉が出てきたのは自然なことのように思える。

 さて、この科学技術ガバナンスという概念を政策的にどう利用するかを考える必要あると思われる。数々の政策的インプリケーションは指摘できるが、幾つかを私の考察を含めながら指摘していきたい。

 一つに科学技術に対する社会的合意調達が「無知な大衆に唯一解である科学的知識で啓蒙して科学技術の効率的な社会利用を実現する」という俗に言う欠如モデルは有効でないということである。このことは、中谷内の書籍の紹介でも指摘したが、科学技術の不確実性の存在、並びにその効用・リスクの評価基準が人々によって違ってくることを考えれば、専門家の知識を注入して人々を教育すれば問題が解決するというコミュニケーションは有効でないと思われる。本書ではそのようなことを示すために「ガバナンス」という言葉を使って各アクターの並列性・対等性を強調している。

(参考)

http://blog.hatena.ne.jp/atop_policyhint/atop-policyhint.hatenablog.com/edit?entry=8599973812277147904

 もう一つには、科学技術に対するリスク評価の方法論の精緻化を科学技術ガバナンスにおけるマネジメントの一環として本書は主張している。絶対的あるいは唯一解的な評価基準や方法を定めることは困難と述べたことに矛盾しかねるが、それでもマネジメントをする上ではリスク評価を行うしかなく、各アクターによって効用とリスクに違いが出ることも視野にいれた上でのリスク評価の方法についてもある程度の合意が必要であるということが本書の示唆であろう。評価方法についてのルール、あるいは科学技術に関するメタ的なルールを整備して、科学技術の利用に関する評価をする必要があるということであるが、これを政府でやろうとすればかなりの政治的リーダーシップと各省の協調が必要になると思われる。

 また、リスク認知の方法が一般の人々は客観的なリスク評価とは違って、「破滅性」、「未知性」、「制御可能性・自発性」、「公平性」の因子に影響を受ける。「破滅性」とは飛行機事故のように一度事故が起きれば大量の人々が死亡するようなハザードを高く見積もるということであり、事故遭遇率で言えば飛行機よりも高いとも思える自動車での長距離移動を安全と思ってしまう(「飛行機は自動車より安全」とまで主張する人間もいるが、利用者の割合を無視したまま事故死亡者を全人口で割った値を根拠にしたり、利用回数を無視したまま事故遭遇率を根拠にしたりと、自動車と飛行機の安全性をきっちり比較したものはなく、私にはどっちが安全かは判断つけられない)。「未知性」とはそのリスク要因が観察可能か、ならびに科学的に説明がつくかどうかであり、放射線被曝の恐怖というのが例として考えられるであろう。「制御可能性・自発性」とは、自分がリスクに暴露されることを選択できるかであり、バンジー・ジャンプしたがる人と無理やりバンジーさせられる人の間のリスク判断のズレがそうかもしれない。「公平性」とは、そのリスクが特定の集団に偏ったものであるかどうかであり、沖縄の米軍基地とそれに関連する事故のリスク認知も基地を不当に負担させられていると感じている沖縄の住民と市民団体にとって米軍基地はより危険な施設と認知されているのかもしれない。